本当は固定観念って言ったほうが良いのでしょうが、概念の方が私の中でハマる気がして、間違っているとしてもこちらを使わせて頂いています。
さて、見つけた固定概念ですが、
「細部まで理解していないくせに、いきなり崩して描くことはダメだ。間違っている。おかしい。」
です。
ものすごい猛批判です。笑
その概念が出来上がったのには、多分これだろうという思い当たる節があります。
きっかけはピカソです。
私はピカソの描く絵が理解出来ず、なぜ有名で人気もあるのか分かりませんでした。特に興味すらありませんでした。
しかし、学生時代の授業で彼の生涯を学んだ時、私の考えはひっくり返りました。
ピカソってすごい。
小学生の年齢で描いたデッサンが大人顔負け。
しかも、色んな画法にチャレンジしててなんかすごい。
彼の絵って、キュビズムの「ゲルニカ」や「泣く女」があまりに有名で凡人の私には理解出来なかったのですが、始まり(素描の土台)はしっかりとあったのだと学び、そこから来る”崩し”だと知った時、それはもう衝撃でした。
青の時代、赤の時代と、色々描き方が変わって行く画家というのも本当に珍しいと思います。
一定の評価をされているのにも関わらず、そこから全く違う画法に移行させていく…
ゼロに飛び込む勇気…
私はピカソのそういう人生の美学に感銘を受けました。(しかも彼、陶芸もしています。ジャンル問わず作品数が多いことも特徴です。)
そして、もう一人。
北大路魯山人です。彼のことは、高校生の時に知りました。習いに行っていた絵の先生が好きだったと記憶しています。先生は魯山人も手掛けていた書や、篆刻(てんこく)という判子も作っていらっしゃいましたので、そういった部分で師範としているのかなと、当時の私は思っているくらいの薄い印象でした。
その、魯山人が一気にすごいと思ったのは、先にあげたピカソとの交流があったことです!
しかも、あのピカソをけちょんけちょんにけなして、
「私の方がよっぽど上手い」
と、斬り捨てています!
この事実を知ってしまった私は、雷に打たれたようなものすごい衝撃でした。何でも出来るピカソ、何でも出来る魯山人。けれど、つわものだと思ったのはやはり後者でした。
魯山人は美食家でも有名ですから、私が九谷業界に入ってからどこだったかの特別展に「あーあの先生が好きだった人ね。」ぐらいの気持ちで見に行きました。
しかし実物の器と出会い、惹き込まれていく自分が居ました。彼は口だけでは無い、本気の本物だと思いました。
一瞬で好きになりました。
帰りには図録を買っていました。
その図録を隅々まで目を通していると、あのピカソとの交流が記されており、知ったということです。
この二人の共通点が、勝手に私の中で固定概念として作り上げてしまったのだと思います。
二人はとてつもない素描力がある。
だから、崩して描くことは許される。
むしろ崩し方が計算づくで上手過ぎる。
よって、このようなひん曲がった概念が出来上がったのです。
「細部まで理解していないくせに、いきなり崩して描くことはダメだ。間違っている。おかしい。」
行き過ぎてますね〜〜。笑
「人それぞれ好きに描けば、それが一番素晴らしい。」
結局のところ、ここに落ち着きますね。
気づきって忘れていた過去の出来事も思い出すので、面白いですね。
私、魯山人が好きなんです。笑
この話はまた別の機会に。
それでは、また。